2009年2月20日
絹谷 様の気になることを調べつくす日記大日本史
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大日本史は、日本の歴史書。江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始され、光圀死後にも水戸藩の事業として継続、明治時代に完成した。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年(元中9年/明徳3年)までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。紀伝体の史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)。
「大日本史」は光圀死後の正徳5年(1715年)に藩主綱條による命名で、同時代には「本朝史記」や「国史(倭史)」と呼ばれている。質の高い漢文体で書かれ、記事には出典を明らかにし、考証にも気を配っている。
『義公行実』など各種伝記史料によれば、水戸徳川家世子として教育を受けていた青年時代の光圀は非行も多かったが、正保2年(1645年)に『史記』「伯夷伝」を読んで伯夷・叔斉に感銘を受け、以来は反省して学問に精励し、史書編纂を志したという。世子時代の明和3年(1656年)には明暦の大火で小石川藩邸が焼失して駒込別邸へ移り、ここで史局を開発し編纂事業を開始する。史局ははじめ茶屋を利用して史局員を付け、後に火事小屋御殿に移して文庫も設置した。日本では『日本書紀』以下六国史など史書は編年体で編纂されるのが常で、『史記』のような紀伝体の史書が編纂された先例はなく、史館員からの反対意見もあったという。修史事業の動機には、幕府の編纂が行われていたことや、明暦の大火でその資料が亡失したこと、林羅山の死などが契機になったと考えられている。
その後、光圀は父頼房の死去により家督を相続し、公務が多忙となったため事業からは遠ざかっていたが、幕府では寛文2年(1662年)に林鵞峰に命じて編年体の史書『本朝通鑑』の編纂を開始しており、光圀は林鵞峰を藩邸に招いて面談し、編纂方針や正統問題について質問している。寛文12年には編纂事業を本格化させ、駒込別邸の史館を小石川本邸へ移転し、「彰考館」と改めた。史館員も増員し、遠隔地へ派遣して史料収集を行い、特に南朝関係の史料を広く収集している。また、光圀は日本へ亡命した明朝遺臣である朱舜水を招聘し、彼らより歴史の正統性の意味を諭された。特に、南北朝時代の南朝方武将楠木正成の忠誠心を朱舜水に示唆された(そもそも日本の正史にとって、北朝と南朝のどちらをとるのかは最大の選択「本朝の大事」だった)。さらに、北畠親房の『神皇正統記』の影響を受けており、林羅山父子が執筆していた歴史書『本朝通鑑』の草稿に、大和民族(日本人)を「呉の太伯の末裔である」という記述を発見して憤慨したという。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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- at 19:24